DAVID BOWIE CHRONOLOGY

1970~1979

1970

2月3日、マーキー・クラブに出演。共演はジュニアズ・アイズだが、これが彼らとの最後のステージとなる。
2月、ディスク&ミュージック・エコー誌の最優秀新人賞に輝く。
2月28日、ハイ・タイドの前座としてバジルドン・アーツ・センターに出演。このときがザ・ハイプとしての初のステージとなる。ラインナップはベースにヴィスコンティ、ドラムスはジョン・ケンブリッジ、ギターに抜擢されたのがミック・ロンソンだった。
3月20日、ブロムリーでアンジーとの挙式。式に参列したのはボウイの母ペギーを含めてたったの6人。
4月、シングル「The Prettiest Star」発表。このシングルはボランがギターを弾いているヴァージョン。
5月10日、アメリカの有線TVの"Ivor Novello"授賞式で「Space Oddity」を演奏。
6月22日、前作より「Memory Of A Free Festival」がシングル・カット。AB面共に新たに録り直したヴァージョン。
The Man Who Sold The World11月、アメリカにてアルバム『The Man Who Sold The World』がマーキュリーより発売される。このUS盤はカトゥーン・カヴァーと呼ばれるイラストのジャケットが採用されている。

1971

1月、ボランの影響の色濃いシングル「Holy Holy」がイギリスで発売される。
同1月から翌月にかけてプロモーションのため渡米。
4月、本国イギリスでも『The Man Who Sold The World』が発売となるが、セールスは伸びず。キーフの手がけた女装ジャケットが物議を呼び、差し替え処分に。数少ない女装ジャケはコレクター・アイテムとなる。
同4月、覆面ユニット"アーノルド・コーンズ"名義でシングル「Moonage Daydream/Hang On To Yourself」を発表。このユニットはデザイナーのフレディ・バレッティらとともに結成したバンドだが、ジギーの曲の原型がこのときに生まれていた。 9月にはカップリングを「Man In The Middle」に変更したシングルも発売となる。
5月30日、アンジーとの間に息子ゾウイが誕生。
6月22日、ヒッピーたちの野外音楽イベント"Glastonbury Fayre"に出演。「The Supermen」を演奏。
9月から10月にかけてオランダ、ベルギー、フランスをまわる小規模なツアーを敢行。
Hunky Dory10月、RCAレコードと正式に契約。敏腕マネージャー、トニー・デフリーズの口説きと『Hunky Dory』のデモが契約の決め手となった。
12月17日、RCAより『Hunky Dory』が発売。シングルカットされた「Changes」のヒットと共に全英3位の好セールスを記録。

1972

1月22日、メロディ・メーカー誌のインタヴューにてバイセクシャルを公言し、マスコミの注目を一身に集める。グラムロックと同期したボウイのメディア戦略がスターダムを切り拓いていく。
2月から9月にかけて、イギリス各地をまわる初の大規模なツアー"Ziggy Stardust"ツアーを展開。
4月、次回作『Ziggy Stardust』のレコーディング・セッションが開始される。
4月26日、シングル「Starman」がアルバムに先駆けリリースとなる。7月にはトップ10入りを果たす。
Ziggy Stardust6月9日、SFをコンセプトにしたアルバム『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』を発表。第1週に8,000枚の異例ともいえるセールスを記録し、全英5位にまでのぼりつめる。
7月8日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの捕鯨をうたうチャリティ・イベントに出演、ルー・リードやリンゼイ・ケンプを招いたターニング・ポイントともいえる公演を行う。
7月28日、ボウイがモット・ザ・フープルに提供した「All The Young Dudes」がシングルとしてリリース。
8月19日、ロンドンのレインボー・シアター公演は"Ziggy Stardust"と題してケンプのマイム・カンパニーやアストロネッツ、バックにはスパイダース・フロム・マースを従えて、"完璧なショウ"と絶賛され る公演を披露。当日の前座はロキシー・ミュージック、客席にはエルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガーら錚々たる著名人が集まり、ボ ウイは一夜にしてスターダムの頂点に立つこととなった。翌日には追加公演も行われた。
9月1日、シングル「John, I'm Only Dancing」が発売となるが、当時歌詞の内容が卑猥とされ、いくつかのラジオ局では放送禁止となった。
同9月、USツアーに向けて、ストラトフォード・イースト・シアターで2週間に及ぶリハーサルが行われる。
9月22日、クリーヴランドより初のUSツアーが開始となる。アメリカへはクイーン・エリザベス2世号で渡った。このUSツアーは当初8回の公演だったが、RCAの意向により8週間、17ヵ所を追加し、アメリカ横断ツアーとなった。
9月28日、NYのカーネギー・ホール公演には、ルー・リードやトッド・ラングレン、そしてボウイの憧れの存在でもあったアンディ・ウォーホールが駆けつける。ボウイはウォーホールに共同で映画を作ることを申し出たが、あっさり無視されてしまう。
10月20日、サンタモニカ公演は94年に『Santa Monica '72』としてオフィシャル・リリースされている。
11月24日、シングル「The Jean Genie」が発売。アメリカでは71位だったが、本国では2位を記録。
12月、ボウイがプロデュースを手がけたルー・リードのアルバム『Transformer』がリリースされる。
12月23日、ロンドンのレインボー・シアターから短期間のツアーが開始される。翌年2月からはふたたびUSツアーの遠征となるのだが、この時期に次回アルバムのセッションが行われた。

1973

1月25日、USツアーのため、サザンプトンより船でアメリカへ向かう。
2月14日、NYラジオ・シティ・ミュージック・ホールよりUSツアーがスタート。ここからが"Aladdin Sane"ツアーと呼ばれている。
4月5日、ボウイ初来日。2週間半の船旅を経て、横浜港に到着。帝国ホテルで記者会見を開く。
4月6日、アルバムに先駆けたシングル「Drive-In Saturday」発売。
4月8~20日、東名阪と広島で来日公演が行われる。最終日の渋谷公会堂ではボウイが衣裳を脱ぎ捨て、観客は終始興奮状態だった様子でコンサートを終えた頃には警察が介入する騒ぎとなった。
日本公演を終えると、ソ連客船ジェルジンスキー号に乗り、ナホトカからシベリア鉄道でモスクワを経由して、イギリスへ戻った。
Aladdin Sane4月12日、アルバム『Aladdin Sane』を発表。イギリスでは予約注文だけでも10万枚を記録し、全英1位も獲得しており、当時の人気はまさに破竹の勢いだった。ジャケットの額にデザインされた稲妻は炊飯器についていたナショナルのマークを拝借したそうだ。
同4月、ボウイがミキシングを手がけたイギー&ザ・ストゥージスのアルバム「Raw Power」がリリース。
5月12日、ロンドンのアールズ・コートよりジギー凱旋ツアーが開始となる。ツアーは37ヵ所、54回にわたる。
7月3日、ツアー最終日のロンドン・ハマースミス・オデオン公演。ゲストにジェフ・ベックが飛び入り出演するなど、完璧なステージが繰り広げられた。しか し、アンコール時に突如ボウイによってジギーの引退表明がなされ、関係者以外ファンやマスコミは騒然となった。そして、9月以降に予定されていた大規模な 北米ツアーもこの引退によってキャンセルとなった。この最終日の公演のドキュメンタリー・フィルム『Ziggy Stardust The Motion Picture』が10年後に劇場公開、同時にサウンドトラックも発売された。
7月9日、フランスのシャトー・デルヴィーユで次回アルバムのレコーディングを開始する。
10月12日、シングル「Sorrow」をリリース。次回作に収録されたマーシーズのカヴァー。
10月18日~20日、NBCのTV特番のためにロンドンのマーキー・クラブでライヴ仕立ての撮影が行われる。このショウは"1980 Floor Show"と題され、ゲストにマリアンヌ・フェイスフルを招き、視覚演出の行き届いた映像が制作された。このショウがボウイとスパイダースの最後の共演と なる。
Pinups10月19日、ボウイお気に入りの60年代ロック・ナンバーを中心としたカヴァー・アルバム『Pin Ups』発売。

1974

1月、ルルのシングル「The Man Who Sold The World」発売。プロデュースをボウイとミック・ロンソンが共同で手がける。
2月15日、シングル「Rebel Rebel」が発売。シングル・ヴァージョンはボウイがすべての楽器を演奏しているもので、アルバム・ヴァージョンは後に録り直されたもの。
2月22日、ソロ活動を開始したミック・ロンソンのレインボー・シアターで行われたライヴにゲスト出演。
同2月、昨年10月頃からロンドンのオリンピック・スタジオに篭ってジギー引退公演の映画化のためのトラック編集に取り組んでいたが、フィルム編集の遅れやその他の事情でお蔵入りとなってしまう。それと並行して次回作のレコーディングも進められていた。
3月、ミック・ロンソンのソロ・アルバム『Slaughter On 10th Avenue』発売。2曲にボウイが参加している。
Diamond Dogs4 月24日、アルバム『Diamond Dogs』発売。G・オーウェルの小説"1984年"をミュージカル化する構想は許可を取れず断念、代わって退廃した未来のミュータントのストーリーがコ ンセプトに敷かれた。スパイダースと離れたこともあり、ボウイがほぼすべてのパートを自身で担当している。
6月14日、シングル「Diamond Dogs」発売。そして、モントリオールを皮切りに北米をまわる"Diamond Dogs"ツアーがスタートする。20万ドルの費用をかけたステージ・セットが話題を呼び、ツアーは成功を収めるが、マネジメントの不備など様々なトラブルに見舞われる。そしてライヴの内容も前半と後半では大きく異なり、後半は"Philly Dogs"ツアーと称される次回作のソウル・ナンバーが主体のライヴになっていた。
9月13日、間もなく発表となるライヴ盤より「Knock On Wood」がシングルカットされる。
10月29日、先のツアーのフィラデルフィア公演を収録したライヴ盤『David Live』が発表される。

1975

1月26日、BBCで先の北米ツアー時のドキュメンタリー番組"Cracked Actor"が放送される。
2月21日、先行シングル「Young Americans」が発売となる。シングルは演奏時間が約2分もエディットされているが、アメリカでは好調にセールスを伸ばす。
Young Americans3月7日、アルバム『Young Americans』を発表。プラスチック・ソウルと自嘲をまじえて命名した、新たな変身は、アメリカでは好意的に受け入れられたが、ジギー当時からのファンは驚きを隠せなかった。
3月11日、グラミー授賞式にプレゼンターとして出演。賞を手渡したのはアレサ・フランクリン。
7月、約11週間にわたり、ニューメキシコにて映画『地球に落ちてきた男』の撮影ロケに参加。
8月15日、ジョン・レノンとの共作「Fame」がシングルカットされ、初の全米1位を4週連続で獲得した。
9月、再発となったシングル「Space Oddity」が6年越しでチャート1位となった。
11月4日、ABCの歌番組"Soul Train"に白人歌手として初の出演を果たす。
11月17日、翌年発表の新作に先駆けたシングル「Golden Years」発売。

1976

1月3日、新作のプロモーションのため、CBSの"Dinah Shore Show"に出演。「Stay」と「Five Years」を披露する。
Station To Station1月23日、アルバム『Station To Station』発売。当初『地球に落ちてきた男』のサウンドトラックとして制作が進行していたが、諸事情により中止となってしまう。レコーディングはハリウッドで行われた。
2月、ヴァンクーヴァーを皮切りに"Station To Station"ツアーが開始される。北米をまわった後、欧州からイギリス凱旋公演まで約4ヶ月をかけて敢行された。ステージは視覚演出を取り払ったシン プルなもので、衣裳やライティング、バックメンバーまでモノトーンで統一した。
4月26日、イギー・ポップ同伴でソ連入りする。
4月30日、シングル「TVC15」をリリース。
5月2日、本国への凱旋、ロンドンのヴィクトリア駅で観衆の出迎えを受けるが、この頃のボウイの言動も手伝って「ナチス式敬礼をしてみせた、彼はファシストだ」というメディアの強烈な批判が相次いだ。
5月、RCAよりベスト・アルバム『Changes One Bowie』が発売となり、好セールスを記録。このベスト盤の選曲はボウイ自身が行っている。
8月日、シングル「Stay」が発売。
9月、アメリカを離れ、ヨーロッパに戻る。フランスのシャトー・デルヴィーユでイギー・ポップのプロデュース作業や新作のレコーディング準備に取り掛かるが、居心地の悪さからベルリンへと発つ。

1977

1月11日、アルバムに先駆けてシングル「Sound And Vision」が発売となる。ほとんどインストゥルメンタルのようなこの曲はロック・アーティストとしてボウイを追いかけていたファンを困惑させた。コーラスには当時ヴィスコンティの妻だったメリー・ホプキンが参加している。
Low1月14日、アルバム『Low』が発売。ベルリンの壁近くのハンザ・スタジオで録音され、このアルバム以降3作がベルリン3部作となる。ブライアン・イーノを迎え、ニューウェイヴの先駆的作品と高い評価を得ているが、リリース当初は賛否両論を巻き起こした。
3月18日、サックスで参加したイギー・ポップのアルバム『The Idiot』発売。ベルリンではイギーと共同生活を送り、アメリカでドラッグにまみれた心身の療養に励んでいた。
3月、イギー・ポップの北米ツアーにキーボーディストとして同行。
4月15日、イギーと共にCBSの"Dinah Shore Show"にバックバンドのキーボーディストとして出演。
4月22日、イギー・ポップと共に来日。両人が休暇の過ごし方について話し合いをしたところ、イギーはタヒチ、ボウイは日本を提案し、結果ボウイの提案が採用されたそうだ。
4月25日、ニューオータニで記者会見を開く。アンジーと別居し、ゾウイとローザンヌで暮らしているとコメントする。
6月17日、シングルカット第2弾「Be My Wife」が発売となる。
9月、キーボードで参加したイギー・ポップのアルバム『Lust For Life』発売。このアルバムは『"Heroes"』と対となる作品と位置付けられている。
9月9日、マーク・ボランがホストをつとめる番組"Marc"に友情出演(放送は28日)。この1週間後にボランは交通事により急死。
9月23日、先行シングル「"Heroes"」がリリース。ドイツ語やフランス語ヴァージョンも発売された。
10月14日、10ヶ月の短いインターバルで『"Heroes"』を発表。ジャケット撮影は鋤田正義氏。ギターで召集されたキング・クリムゾンのロバート・フリップはたった一晩ですべてのトラックを録り終えたらしく、レコーディング自体も短期間で行われた。
12月24日、ビング・クロスビーのクリスマス番組に出演。「Peace On Earth」をデュエットする。ボランに続き、クロスビーもこの数週間後に心臓発作でこの世を去る。

1978

1月6日、『"Heroes"』より「Beauty And The Beast」がシングルカットとなる。
1月、ベルリンにて映画『ジャスト・ア・ジゴロ』の撮影ロケに参加する。
3月、過去最大級のワールド・ツアーが29日のサンディエゴからスタートする。ツアーはUSと欧州にはじまり、オーストラリアや日本も日程に組み込まれた。ネオン管を配したステージが幻想的なインストルメンタル・ナンバーや復活したジギー時代の楽曲を引き立てた。
5月12日、息子ゾウイが好きだったのでナレーター役を引き受けたというクラシック作品『Peter And The Wolf』が発売となる。
9月8日、同年のフィラデルフィア公演を収録した2枚組ライヴ・アルバム『Stage』が早くも発売となる。
11月17日、『Stage』からのシングルカットは「Breaking Glass」。
12月6日~12日、約5年ぶりの来日公演が行われる。日本滞在時には有名人が集ったパーティーが催され、黒柳徹子やデヴィ夫人、沢田研二らが参加した。
12月12日、NHKホールでのライヴが当時の人気音楽番組"ヤング・ミュージック・ショー"で放送される。

1979

4月23日、イギリスのTV番組に出演。「Boys Keep Swinging」を寸劇をまじえて披露。
4月27日、先行シングル「Boys Keep Swinging」発売。PVでは一人4役をこなし、そのうち3役は女装という、エキセントリックな映像が話題となった。
Lodger5月18日、ベルリン3部作の完結となるアルバム『Lodger』が発表される。
6月29日、シングルカット第2弾は「D.J.」。このPVも「Boys Keep Swinging」同様デヴィッド・マレット監督によるもので、話題性も考慮した映像となっている。
12月7日、「John, I'm Only Dancing」をソウル・テイストに焼き直した「John, I'm Only Dancing Again」がシングル・カットされ、ヒットを記録する。
12月31日、70年代終わりのこの日、ボウイは3ヶ国のTV番組に出演。再録「Space Oddity」のヴィデオ、アコースティック・ヴァージョン、そしてインタヴューといった割り振り。